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*16 オーブンが無いとパンに成らない

 このシュトラウビングと言う街に越して来てからというもの、矢鱈と忙しない天気が目立つ。それも日毎に空の表情が変わるというのとはわけが違って、十分前に吹雪いていた景色が今はもうさっぱり晴れていたりするという様なのを一日中繰り返して、三寒四温を二十四時間の内に凝縮したが如くに晴れたり雨たり雪たりするのである。毎日では無いにしても既に頻繁である。それだから学校からの帰路で晴れていたと思っても、トレーニングを済まし、いざジョギングへと外に出ると、私を小馬鹿にする様に雨やら雪やらが舞っていたりするので厄介な有様である。


 そう言っておきながら私の心模様を空に喩えるとするならば、殆ど変わらない程不安定であるかもしれないと思ったのは、私が助成金の書類を改めて読み返していた時に見落としていた点に気付いて、途端に黒い雲が現れ空一面を覆ったからである。まあ既に片付いて事無きを得た後だからこうも平気な顔で書けるのだが、その見落としていた部分のドイツ語が果たして何度読み返しても納得に至らなかったので、遂には学校の先生や事務室を尋ねては解決に努めたのだが、誰一人として明言出来る者に出会わなかった。助成金関連の事である以上、ともすれば何か重大な事件の火種に成り得るところである。個人的かつ専門的な話であるから少々抽象的な書き方になって申し訳ない。

 すると担任の先生から「金融の事についてならフーバー先生を当たると良い」との助言を貰って、早速翌日にフーバー先生に相談を持ち掛けると、間髪入れずにさらに詳しいと思われる人への電話を請け負ってくれたのだが、私が書類を見せるやいなやであった為に果たして私の質問の内容を理解したかどうか些か不安であった。また説明をする私のドイツ語も至らないような気がしてその不安を助長した。斯くして翌日、フーバー先生は電話した結果を私に報告してくれた。お陰で事の全体が把握出来た私はその用事を済ませるに至り、同時に心に立ち込めていた暗雲はまたすっかり退いてくれた。全くあらゆる人に支えられている。有難い。



 月曜日は実習の授業に一日を費やし、本試験用の飾りパンを試作した。旅というテーマに向けて革鞄を模したデザイン(※1)は大凡決まり、後は作業の正確性という所である。ベースとなる生地を伸ばす技術であったり、焼き時間の調整であったりと決して少なくないのだが、それでも全体像と工程を一通り望めたのは貴重であった。

 また木曜日の午後の実習では三つの菓子パンを並行して作らなければならなかったのだが、どれもまともに携わった事も無ければまるで初めて学ぶパンである上に、この時に限って先生は大急ぎで、工程の説明に際してバイエルン訛りと熱の籠った早口に拍車が掛かっているようであった。耳を必死に先生の声に沿わせ、イメージを持ち合わせていないパンの完成形や工程を脳内に描き、さあ取り掛かれとなって私は一先ず周囲の見様見真似である。そして一つ目のクグロフ(※2)の中種の材料を量り捏ね始めたのだが、さて次はどうしようと配られたレシピを見てクグロフの材料の続きを量り始めると、明らかに周りと動きが違った。流石にタオルを投げ入れ先生を呼び、工程を理解出来ていない事を伝えると、少々手加減されたバイエルン訛りで説明をして貰えて、それで漸く先を考えて動ける頭になった。ところが三つを並行して作るとなると、脳内で完成イメージや発酵、レシピ、生地の具合などの情報が錯綜し、終始落ち着かずばたばたと忙しない時間を過ごして、周りから随分と遅れを取りながら、それでも何とか形にはなった(※3)。

 これは予習が必要である、とその日の帰り道に私は思った。それまでの私はてっきり、ある程度の落ち着いた説明と大まかな工程を聞いたのちに取り掛かるものだと思っていたのだが、落ち着いた説明はおろか工程も完成形も心得られないままで、ざぶざぶと押し寄せる大波を乗り熟さなければならないという風であった為に、技術はなくともせめてサーフボードを持っていなければどうにもならないという事を悟ったのである。本よりこれは私の未熟さと油断であった。

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 一方座学はというと特別大きな問題も無ければ、ばたばたするという事も無いので無難に過ぎて行った。こと計算に関して言えば、原価計算、利息計算、サワー種(※4)を含むパン生地の配合計算、製パンの工程で失われた水分による重量の計算など、一般から専門まで習っていても計算で躓く事は滅多に無い現状である。しかし、利息計算などになってくると金融的専門用語が問題文に並び始めるので、その辺りが少々問題である。六年ドイツ語に触れている成果か、アルファベットの並びで何となく意味が解るという事はあるのだが、如何せんそこに確信が無い為にそろそろと忍び足で計算を進めていると思いの外時間を食ったりするわけである。

 そんな話を同居人のトーマスに話すと「問題文で困っているのは君だけじゃないさ」と返ってきたのだが、恐らく彼の思う躓き方と私の思う躓き方は違っているので、それ以上膝の擦り傷を見せ合っても仕方が無いと思い「そうか」とだけ呟いてそれぎりにした。無論、彼らが文章の理解で躓いているのを私も目の当たりにするので彼の言う事に反論は無かった。


 三年前の職業学校で習った事柄が、より鮮明に、より詳細に上書きされているのが現在である。それは単に私の語学力や知識の増幅によるもののみならず、授業の質が一段階上がった事にある様に思う。そもそもの前提として学校そのものの理念の差というものこそあれど、例えば職業訓練では表面をさらっと撫でる程度であったものを、今のマイスター養成校の授業では力を入れてその感触を確かめるように触り時に掴まんとしている。しかし当時の内にさらっと撫でておいたお陰で今、躊躇わずに触れられているのもまた事実であるから、その差に苦情を申し立てたいという烏滸がましき欲望などは断じて持ち合わせているわけではない。


 今週、満を持してミネラルやビタミンや酵素といった辺りを習った。と言うのもかつての私と言えば、目に見えない物を理解するのは難しいと、栄養だの元素だの何だの彼だのを毛嫌いしている節があったのだが、去年の夏前辺りから突然、栄養学に魅せられたりなんかしだして、従って今週のこれらの授業は頗る興味深く話を聞いていた。

 それどころか家に帰るなり、いつもの通りに机の上に教科書やら独和辞書やらを並べ、さて復習に取り掛かった所、結局見積もっていた範囲の半分も済ませられなかったのである。これは決して堕落などでは無く寧ろその反対であり、特にミネラルについて余りに深く掘り下げ熱中し過ぎた結果である。辞書を引いて単語の意味を調査する他に、インターネットで調べた各ミネラルの性質や種類を手元の紙と照らし合わせて、などとやっていると時間があっという間に過ぎていたりする。結局翌日に持ち越したビタミンやホルモンなどについても、その半分を済まし残りの半分はまた翌々日に持ち越した。そうして迎えた週末である。取り戻すには十分な時間が生まれる週末には、気持ちの面で大いに救われる。



 金曜の午後にトーマスがまた料理を振る舞ってくれた。今度は豚肉料理であったが、これも例によって彼の祖母の料理だと言った。先日作ってもらったプファンクーヘン(※5)の御返しの積で月曜日に私もカルボナーラを振る舞ったのだが、今回はそのカルボナーラへの御返しだと言うので、その内また、今度は日本食でも作ろうと思う。何より同じ下宿に暮らす他人と険悪にもならず、そればかりか学校の事やそれ以外の事を質問出来るというのは救いである。全くあらゆる人に支えられている。





(※1)革鞄を模したデザイン:

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(※2)クグロフ[ Gugelhupf ] :ドイツやオーストリアの甘いパン。
(※3)奥からクグロフ、キッシュ、ドイツ風揚げドーナツ

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(※4)サワー種 [ Sauerteig ] :ライ麦粉と水を混ぜ事前に発酵させておくパン種。
(※5)プファンクーヘン [ Pfannkuchen ]:クレープの様に生地を焼いたもので、甘味にも食事にも食べられる(南ドイツ・オーストリア)


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マイスター養成学校が始まり勉強に全身全霊を注ぎ込む積でいまして、それに伴い勝手ではありますが記事投稿の日曜日以外はなかなかnoteの方にも顔を出せなくなります。どうかご了承ください。

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